そこは何の変哲も無い街。人が道を行き交う日常的な光景の中で、一杯のコーヒーを飲んでいた。
「いい街だな」
 髪が風に揺れて顔をくすぐる。しばらく切っていなかった金色の髪、長く伸びて今では腰に届くほどになった。昔は意識して短く、短くしていた。それを考えなくなったのはいつからだっただろうか。よく思い出せない。でも、さすがに伸ばし過ぎたかとも思う。かつて旅をした面々に見せたらなんて言うだろうか。
「そろそろ切らなきゃな」
 しかし今なら男だと思われることは無さそうだ。一人称は今も変わらないし、元々はそう思わせようとしていた節もあったのだが。


思えば、何もかもが不明だ。
どこから来たのか、どこへ行くのか。記憶は途切れ途切れで、脈絡も見えない。異常だ。狂っている。それは分かっている。なのに、不安は無かった。
「400Gになります」
「はい」
 思ったより安いな、なんて考えながら街を散策し始める。そこはまるで初めて見たような場所で、そして今まで知らなかった色々な物が売っている。煌びやかな衣装も、実用性の無さそうな飾りの剣も、逆に一線級であろう魔法の剣も――。
 横に並べるには差があり過ぎる。苦笑せずにはいられない。とはいえこれでもマシな方で、場所によっては石鹸の横にいわくつきの壺が売っているような、いやそれでは済まないような訳の分からない場所だってある。数多の場所を見ていれば、常識の範疇を遥かに外れてしまったものもよく見るものだ。
 商品だけじゃない。以前見た場所は、何もかもがおかしかった。でもそれが、楽しくて仕方なかった。今は、どうだろうか。
 見上げると、陰り無い青空が広がっている。


 街から離れ、人影が見えなくなった頃。久しぶりに羽を広げた。比喩などではなく、実際に広げてみた。背に生えた一対の翼は、街中で広げるには大きすぎる――それ以前に、普通の人混みで広げるには異質すぎる。
 そんなことを考えるようになったのも最近の話だ。以前ならば何の考えも無く飛んだことだろう。そして、そのことで奇異の目を向けられることもなかったはずだ。理由は、分からない。だけど確かにそうだった気がする。今は違う、非日常になった。

 空から眺める世界は小さかった。いくつかの街に、森とか山とか、氷原とか。見えている場所はほんの一部分だ、だけどそれにしたってこじんまりとしすぎていないだろうか。縮図を見ているようで物足りない。これも、以前は感じなかった。何の疑問も抱いていなかった。
 空気の流れを感じつつ、目を閉じる。次第に、意識は薄れていく。空で眠る、何て無謀な。でも、そうしたかった。そうすれば、何かが分かりそうだったから。


 気付けば、全く別の場所だった。薄暗い洞窟の中。だけどそこは、少しだけ見覚えのある場所。微かに残った記憶を手繰り寄せても、いつ来たかは分からない。それでも、知っているはずだと頭の中で繰り返した。答えは出ないまま、また歩き出す。
 さあ、何をやったのだろうか。ここで何をしていたのだろうか。そう考えると、奥から声が聞こえてきた。それもまたどこかで聞いたような、誰かの声。それを頼りに歩いていくと、開けた場所に出た。出迎えたのは、四人の少年。金色の髪の少年、黒い髪の少年、赤い髪の少年、青い髪の少年……これと言った特徴の無い、普通の少年たち。

 そんな子どもたちを見て、ようやく理解ができた。

「だ、誰だあんた?」

 金色の髪の少年が恐る恐る聞いてくる。同じ髪の色だ。全く同じ――そうに決まっている。過去の自分なのだから。
「いつか分かる。安心して冒険しろ」
 他に言うべきことも無い。踵を返して来た道を戻ると、後ろから声は聞こえることもなく。
何が起こったかは知っている。もうこの洞窟に人はいない。


 貴方は知っているだろうか。かつてあった物語を。いや、知らなくても構いはしない。どれとも言っていない。一つは知っているかもしれない。一つは誰も知らない。ただ、その結果がこれだ。
 俺は過去から今までを見続けてきた。その中で俺は変わった、幾度となく。そして世界もまた、同じだ。最早昔の姿を留めていない。誰がいたか、どんな場所があったか、それだけじゃない。歴史そのものが全く別のものへと変わっていた。
 それはこの世界だけのことじゃない。きっとどこかで、また別の世界でも起こっていることだろう。そう思っている。安心してほしいのは、貴方のいる世界では多分そういうことは起きていないということ。
 ここは夢幻の世界であり、いつでも変わり続ける。
 だが、今この場所があったことは、もう変わりはしない。一度確かに歩いた軌跡は、もう変わらない。それだけは断言できる。そうでなければ、繋がらない。たった一人の存在に。

 

 俺の名前は――スピード、という。これは確かに俺の名前で、変わることのないものの一つ。誰かが書いた一冊の本に綴じられた、紛れも無い現実。
 途切れ途切れの記憶。不自然な繋がり。書き換えられた事象。それは描かれるか不確定な世界。それが文字になって、誰かが見て……初めて現実として確定する。この出来事が俺の事実になる。
 ところで、俺のことを知っているだろうか。知っていてくれたら嬉しい。きっと、誰かも喜ぶことだろう。

 これでこの出来事は終わり――だけど、いつかまた別の出来事があるはず。俺はきっと、そこでまた何かを考えたり感じたりするのだろう。それでも一つだけ確かなことがあった。俺は俺だということ。当然ながら。


 天使と悪魔の物語があったなら。人形と人の物語があったなら。大いなる力の物語があったなら。
 そして、俺の物語があったならば。また、貴方と会うことになるかもしれない。そうであったら、嬉しい。

 ありがとう、またいつか。